かつてある兄弟姉妹と分かち合った、獄中のウォッチマン・ニーについての証言です。中国語の原文はネット上に広く普及していますが、この度、和訳をウェブページにまとめましたので、ご自由にご利用下さい。
和訳に際しては、私から漢詩に詳しい方に一部を依頼しました。その他の部分は中国語を専門としない者の翻訳です。もしもお気づきの点があれば、お知らせ下さい。
獄中のウォッチマン・ニー (日本語)
倪柝聲在獄中 (中国語)
Watchman Nee in prison (英語)
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)
さあ、一つの区切りとして、このブログを終了する時が来ました。書きたいことはまだ沢山あるのですが、次の予定は未定、今しばらくの間、お休みをかねて、主の与えて下さる命の恵みを、静かに、目いっぱい享受しながら、進んで行きたいと思います。
主の栄光の御名は誉むべきかな! 主は賛美されるにふさわしい方! 私たちを全ての苦難から救い出し、死から命へと移し出し、完全に贖って下さる方! 私たちの働きのすべてを主の御手に置きます、主がすべてに報いて下さいますように。
主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」
と言った者が、もろもろの国民の中にあった。
主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。
主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
(詩篇第126編)
「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)
今晩、ある友との親しい交わりを通して、私の中で一つの時代が終わり、新たな時代が幕開けたのを感じました。たとえるならば、ドラマチックな第二楽章が、燃え盛る炎のような勢いで終わり、静かな第三楽章が、かすかに聞こえる物哀しい音色で始まったという感じでしょうか。
遠方にいる恋人との会話のような、その交わりのことはここには詳しく書きません。隠れたところで、ひそやかに、ひめやかに、真摯に主に向かっていきたいと、そして、主のいのちの恵みを、誰も知らないごくごく普通の生活の中で、思い切り享受して生きたいと、厳粛な思いを分かち合ったのでした。
本当に不思議なことなのですが、このようなブログを書いていると、損な生き方をしていると思うことしばしです。望ましくない反対がどれほどあったでしょう。しかし、どうにも、主の評価というものは、人や、私の視点とは違うようなのです。私にも、できるならば歯に衣着せてものを語り、惨めな出来事については沈黙を守り、可能な限り、波風立てたくないとの願いがないわけではありませんが、ところが、これはただ主の憐れみによる他はありません――結局、真実を訴えることしかできないのです。そして、不思議なことに、主がいのちにあって一つとされた人々は、私が真実をもって語らうときにひるまず、かつ、去らないのです。
もちろん、私の未熟さが多分に表現の中に含まれているのは否定できないでしょう、それでも、もしも本当に言うべきことを発言しているならば、その責任を負って下さるのも、主であることを知らされるのです。全てのことは主の御手の中にあるのです。誤解や、すれ違いや、偏見や、対立が起こることさえも。
それにしても、主の命の中にある交わりが、ますます目に見えるところから隠されて行っているような気がします。それは決して人に栄光をもたらすことのない、公の会堂や集会とは別の流れに、何かしら隠されたマナのようなものになって行っているように感じられるのです。
日々、刻々と変わる、人生の目くるめくドラマの中で、カメラにもおさめることができず、文章にとどめることもできない、その不思議な命に共にあずかっている厳粛さ。私の知らないうちに、人がその思いのすべてをかけて、命のすべてをかけて得てきたもの、燃える炉の試練の只中を通らされて、相応の代価を支払って、痛みと苦しみと叫びを通過して、試されて残った真理に触れる厳粛さ。それはとても言葉にすることができません。
それにしても、ほんの少しの間に、これほどまでに全てが変わるとは、思ってもみませんでした。主がその人自身を切り開かれて作られた道がそこにあります。それはその人が代価を支払って勝ち取ったものであり、どんな優れたメッセージも決して与えることがかなわないような衝撃を、存在そのもので証するのです。
ただ厳粛な敬意のうちに頭を垂れるしかありません。主ご自身が私たちを出会わせ、私の愚かさと未熟さと限界にも関わらず、交わりをつなぎとめて下さったことに感謝するのです。それにしても、このように命をかけた言葉にならないメッセージを人から託されるとき、どうして強くあらねばと決意しないことができましょう。そこには命をかけた信頼があるからです。
私は男性ではないからよく分かりませんが、花嫁による命をかけた信頼、それさえあるならば、たとえ全世界が敵に回ったとしても、花婿は恐れなくどこまでも勇敢に進んで行けるのでしょう。そして多分、主が私たちに求めておられるのは、そのような愛と信頼によって、主を信じ続けることなのです。そして、命をかけて信頼する花嫁を、主は死から救い出して、命へと移さないわけにはいかないのです。
「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)